カルテの余白 患者さんとの出会い カルテの余白 患者さんとの出会い

エピソード13

家族の強いすすめで人工呼吸器を装着し、今でも一家の大黒柱に

1996年ごろ手足の異常に気づいたNさんが、ALS(筋萎縮性側索硬化症)と診断されたのは1997年。3年後、肺炎を起こして入院した際に気管切開を行いましたが、人工呼吸器の装着については、ずっと躊躇したままでした。その後呼吸困難を起こしたNさんに、人工呼吸器の装着を決意させたのは何だったのでしょうか。

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手足に不自由を感じながら仕事に専念

Nさんが右手に異常を感じたのは、67歳秋のことです。当時、農協の常任理事を務めていたNさんは、毎朝出勤時にネクタイを結ぶとき、右手が自由に動かないことに気づきました。しかし、ほかに異常を感じなかったことから、理由がわからないまま、体を縮めてネクタイを締め、毎日農協へ出勤して仕事に専念する日が続きました。

胆石症の手術がALS診断のきっかけに

1997年4月急性の腹痛で近くの病院に入院、胆石症と診断されます。1ヵ月後、胆石症は手術によって快復しましたが、手足の異常は時間とともに進行していきました。医師のすすめもあってC大学医学部を受診し、検査の結果ALSであることが判明します。

当時はまだ歩行可能だったので、ご本人もご家族も病気の深刻さに考えが及ばなかったけれども、紹介されたCH病院で目だけしか動かせない入院患者さんを見たときのご本人と奥様の衝撃は、言葉に尽くせないほど大きかったであろうと推察します。

3年後には訪問看護を開始

Nさんは1997年9月に当院を受診し、通院して治療を受けていましたが、徐々に嚥下困難、四肢の著しい筋力低下をきたすようになります。2000年4月、ほとんど歩行が困難になり車イスへの移乗も難しくなったため、当院が訪問看護(*)を開始することになりました。

(*)帝京大学医学部附属市原病院の訪問看護体制

当院では看護相談室が中心となって、訪問看護やショートステイの体制が整っており、在宅で療養する患者さんへの十分なサポートが可能になっています。神経内科の患者さんの往診は私が担当しており、当院がカバーしている地域は千葉県南部のかなり広い地域にわたっています。神経難病の患者さんの在宅療養のサポートについて、大学病院の医師がわざわざそこまでする必要はないという意見も一部にはありますが、私は患者さんやご家族と一緒に神経難病と闘っていくことが私の使命だと考えているので、毎週順に患者さん宅に往診に出かけます。

患者さんやご家族は、次回の往診までに質問事項をまとめておき、私が訪れるのを心待ちにしているようです。

肺炎を起こして救急外来を受診

当院がNさんの訪問看護を開始して間もない2000年5月の連休に、発熱、悪寒、食欲不振、全身倦怠感などの症状があり、急遽救急外来を受診。肺炎の徴候が認められたのでそのまま入院し治療を受けることになりました。しかし数日後、さらに症状が悪化したので、気管内挿管し一時的に人工呼吸器を装着することに――。その際、私から人工呼吸器についていろいろと情報を提供し、「今後よくなった後もつけるかどうか考えましょう」と話しました。ご本人は最初「呼吸器を着けたい」と望んでいましたが、その後「着けない」と否定的になり、両方の間を行ったり来たり、非常に心が揺れ動いていました。

気管切開して自宅療養することに

その後5カ月余りの入院治療によって、人工呼吸器を外すことに成功。しかし、唾液が飲み込みにくく再び肺炎を起こす危険性があったので、気管切開を施術。カニューレを着けての退院となりました。退院の前にご家族に痰の吸引と経管栄養法の指導をし、数日間練習をしてもらったうえで自宅療養に移りました。

自宅での看護は、奥様を中心として娘さんと長男のお嫁さんが交代で行っています。日中は娘さんとお嫁さんの手がありますが、夜間の痰の吸引は奥様一人の手に委ねられます。Nさんが人工呼吸器装着をためらった理由は、その当時、奥様の疲労度が目に見えて増したことにありました。

自発呼吸が困難になり予断を許さぬ危機に直面

2000年9月に退院した後、看護もスムーズに行えるようになり、翌年の春まで大きな変化もなくNさんは自宅療養を続けます。しかし、2001年の3月、昼間看護していた娘さんが夕方帰ろうとしたとき、Nさんの顔色がおかしいことに気づきました。サチュレーションで血中酸素濃度を測ったら普段より異常に低かったので、当院に連絡をして緊急入院。そのとき、Nさんは呼吸困難でチアノーゼを起こしていました。

私たちは人工呼吸器の装着しか方法がないと判断しましたが、ご本人は装着を拒否。そのままにすれば確実に危ないという事態になって、奥様をはじめ娘さんたちがご本人に「呼吸器を着けてほしい」と涙ながらに懇願されました。私も「あなたがこの世に生きているというあなたの存在そのものがご家族にとってかけがえのないものなのです。死んでしまってはすべてが無になってしまう。ぜひ、生きて一緒に病気と闘いましょう」と話して、ご本人の決断を待ちました。

翌日Nさんはご家族の熱心な説得に応えて人工呼吸器装着を決意し、装着した後状態も落ち着きました。

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大黒柱として指示を出す毎日

1カ月後自宅に帰られたNさんは、ご家族の温かい看護に支えられて、その後安定した療養生活を送っています。現役で活躍していたころは、周囲の人に指示出しする毎日だったので、今でも「家のことはすべて相談して指示どおりにしている」と奥様。Nさんは一家の大黒柱として、しっかり存在を示しておられます。

最近ではパソコンを顔の動きで操って、保健士さんや看護師さんにメールを打つなど、新しいことに挑戦する意欲も旺盛です。