エピソード10

忘れ得ぬフルート

  今から約17年前に診察した若い男性患者さんとの出会いは、現在でもあざやかな記憶として残っています。
若くしてALS(筋萎縮性側索硬化症)を発病し、進行も非常に速かった彼の闘病を、少しでも助けたいと願っていた私に、彼は自分がいちばん大切にしていたものを残して、残念ながら亡くなりました。


 

救急車での緊急入院と人工呼吸器の装着


  今から約17年前のある晴れた日の夕方、ポケットベルが鳴りました。救急車で一人の若者が、呼吸困難のために救急室に運び込まれたのです。
若者の母親からの連絡でした。私が駆けつけたときには、すでに人工呼吸器が装着され、苦しそうな様子でしたが、私の存在を確認した後、彼の安堵の気配を感じ取りました。彼を初めて診察してから約1カ月後の出来事でしたが、発病して約3年で、まだ34歳の若さでした。若年発症で痙性(けいせい)(*1)の強いALS症例では、一般的に経過が遅いことも多く、彼も初め緩徐な経過をとっていたので、今回の急激な症状の進行には少し驚きました。
人工呼吸器装着の可否の相談をするいとまもなく、容態が急変し、神経内科病棟に運び込まれたのです。

 (*1)痙性:安静時の筋緊張亢進の状態
 

速いスピードで進行した病状


     彼が最初にからだの異常を感じたのは、左上腕筋肉のけいれんするような感覚、左人さし指と中指の間の筋肉がけいれんするような感覚からでした。その後、左手の筋力低下、筋萎縮と握力の低下に気づいています。
私が初めて彼を診察した時は、両腕をほとんど挙げることができませんでしたが、歩行は何とか自力で歩けるような状態でした。しかし、この時点で球麻痺症状(*2)はありませんでした。
彼は、私の診察以前にすでに1回目の入院をしていて、ALSと診断され、自分の病気について十分知っていたと思います。ただ、このように急速に症状が進むとは、予想していなかったかもしれません。私の経験では、若くしてALSを発病した痙性の強い症例の場合は、発病後2~3年で両腕を挙げることができないほど進行することは少なく、また、高度な歩行障害にまで至らないのが普通です。

(*2)球麻痺症状:舌、のどの筋肉が弱くなることを球麻痺といい、ことばが不明瞭になり、食べ物や唾液を飲み込みにくくなり、むせやすくなる。
 

からだを動かせない状態での闘病生活


     人工呼吸器を装着した彼は、しばらくして関連病院に転院。私はその病院に週1回勤務していたので、入院している彼を訪問することができました。  お母さんの話では、とても辛抱強い息子さんとのことで、私も同感でしたが、頻繁のナースコールに看護婦さんたちは少々まいっていたようです。ナースコールは、最初指で押していましたが、指を使えなくなった後は、かろうじて動く足趾でボタンを押して看護婦さんに連絡していました。動かすことのできない手足の位置が、通常の定位置から少しずれたところにあると落ち着かず、すぐにナースコールをしては直してもらっているようでした。
とても感受性が強く、周りの変化にも敏感でした。毎日、母親が来てくれるのを待ちわび、また週に1度の私の訪問を心待ちにしていたようです。都合により私が診察できなかった週は、さびしい思いをさせてしまいました。
 

フルート奏者として管弦楽を率いた大学時代


     私が病室を訪問すると、いつも彼はベッドの上でイヤーホーンを耳に、クラシック音楽を聴いていました。母親に所定の位置にイヤーホーンを装着してもらって、音楽を聴くのが唯一の楽しみだったようです。
彼は大学時代、管弦楽クラブに所属し、指揮者として活躍。自らもフルートの演奏を得意としていました。音楽は彼のつらい闘病生活を大いに慰めたにちがいありません。


 

黒光りのするフルートに願いを託して


     彼の入院生活が始まって毎日付き添っていたお母さんが、ある病気に罹患してからは、週に2~3回しか付き添えなくなりました。彼は、ほぼ完全に全身が麻痺して動かない寝たきりの状態で、人工呼吸器を装着し、経管栄養を行っていました。
発病して10年になるある日、とても大事にしていたフルートを、私にもらってほしいと彼から依頼がありました。音楽にうとい私は、猫に小判と思い、初めは躊躇しましたが、真摯な目で訴えられるので、ひとまずお預かりすることにしました。

――それから数カ月して、彼は他界しました。

なぜ彼が、私にいちばん大事にしていたフルートを残していったのか、その意図はいまだによくわかりませんが、きっと本人はALSが難病中の難病であることを承知しており、一日も早いその原因の解明と治療法の確立を願い、その思いを非力な私に託したのだろうと勝手に解釈しています。

――それにしても、黒光りした威厳のある不思議なフルートです。

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