エピソード4
献身的な介護をされたご主人
K子さんは入院中にALSとの診断を受け、退院されてからは1カ月に一度、小生の外来にご主人が運転される車で近県から数時間かけて通って来られました。当初1-2年は何とか自力歩行が可能で、はじめは東京までのドライブも四季折々の景色が美しく、気晴らしになっていたようです。そのうち歩行が困難となり、車椅子を使用されるようになりました。ドライブ中身動きができないため、途中のドライブインで少し休憩をとりながら通院されました。毎月受診はしているものの、病状はむしろ悪化していると寂しい顔つきで話されるので、藪医者で申し訳ありませんと申し上げると、黙って微笑みを浮かべておられました。K子さんはとても温厚でしっかりした美しい年配のご婦人で、ALS発症前は趣味で本格的にダンスに打ち込まれ、とても社交的な方だったようです。ALSと診断されてからは、ダンスをはじめ社交は一切やめてしまい、見舞いも断って、自宅で花を愛でる毎日を過ごされていました。お元気な頃の踊っているお写真を拝見したことがありますが、まさに「立てば芍薬」といった風情の佳人で、不自由な姿を人目にさらしたくないのも道理と胸が痛んだものです。
ALSに罹患されると、患者さんのみならず家族にとっても大きな変化が起こります。K子さんのご主人はスキーや登山など多くの趣味をお持ちでしたが、夫人がALSに罹患されてからは一切趣味を断ち、介護に全精力を傾けておられました。ご主人は歯科医院を開業されていましたが、診療の合間にしばしば様子を見に行っては細やかにお世話をしていたようです。ご主人の手を煩わせないようにと、いつも忍耐強かったK子さんでしたが、四肢の筋力低下が進み自力で身の回りのことができなくなるにつれて、ご主人は24時間体制で介護に臨まざるをえなくなりました。ご主人から小生宛ての手紙に、「顔にとまった小さな虫も自分では追い払うことができず、『お父さん、虫!』といっては怖がりました。お腹の上に重ねてのせた両手が熱くなっても自分でははずせず、「お父さん、熱い!」といっては起こしました。喉元が寒いとき、何回も起こすのを気の毒がったのか、毛布のへりを何回も何回も自分の唇でくわえなおしては調整して寝ておりました。」とあります。夫人の闘病期間中、ご主人は決して弱音を吐かれることはなく、不満ももらさず、いつも明るく振る舞われておられました。
深い信仰をお持ちのご主人は、K子さんが亡くなられたときの心境を以下のように綴っておられます。「午後4時ごろ、何か言っているので耳を近づけますと、『お父さん、ごめんね。』と言うのがわかりました。『そんなこと言わないで』と言って軽く頬を叩くと頷きました。6時ごろ再び小さな声で『有り難う』というのが分かりました。私は言葉にならず、ただ『うん』と言ってまた軽く頬を叩くのが精一杯でした。涙が頬を濡らしました。でも、酸素吸入をしている呼吸が順調でしたので、まさかと思っておりましたが、それから3時間後には神様は全く安らかにみ許に引き寄せられました。本人は勿論、介護者にも安らぎと慰めをお与え下さったのでした。私は正にここに神の奇跡と愛と恵みを覚えまして、ただただよかったと喜びさえ感じました。死はとこしえの生命に入る門であり、K子はとこしえに主の宮に住んでまいります。どうぞ皆様、K子のためにお喜び下さい。そして神のみ業をおたたえ下さい。……埋骨が済んで大分落ち着きましたが、私の心境としては、死とは一体なんなのでしょうか。K子が亡くなったということよりも、何故今ここにK子が、いないんだろうかと云うことの方が強く私の体を揺さぶります。自分の病気の世話よりも花の世話を先にしてとだだを捏ねるほどだった花好きのK子が、お墓の小さな花立ての水が無くなったり、臭くなっているのを気にしているのではないかと思うと矢も盾もたまらず、飛んでいっては水を替え、花を替え、こんなことを毎日やっております。人様には笑われるようなことかもしれませんが、お墓参りというよりは自分の気持ちの走るままに自由にやって居ります。墓前にいるのがたとえ5分か10分間の短い時間でもこんなに清々しい気持ちになる自分に驚き、やめられず、ついつい出かけてしまいます。」
ご主人は今では長い介護生活から解き放されて、海外で山スキーを楽しんだりされているようです。最近、地位や職を投げうって病妻を献身的に看護する夫の美談が新聞紙上を賑わしていますが、以前の日本の男性像では考えられないことで、その変化には隔世の感があります。小生のような薄情な人間には、K子さんのご主人のように献身的に妻を介護する自信がありません。そう妻に話したら、「期待していませんから、ご心配なく。」と厭味のカウンターパンチをくらってしまいました。妻はK子さんのご主人を世の男性の鏡と仰ぎ、小生は失言が尾を引いて「薄情者」のレッテルを張られ、家庭内で冷ややかな視線を浴びております。小生は、K子さんのご主人の爪の垢を煎じて飲まなければならないようです。
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