エピソード12

「ALSは病気じゃない」と平常どおり仕事に専念したT.H.さん

     ALS(筋萎縮性側索硬化症)の症状は、非常に速く進行するケースと、緩やかに進行するケースがあります。T.H.さんの場合は後者で、60歳で発症しましたが、その後12年間も仕事を続け、72歳の誕生日を迎える直前まで会社へ出勤していました。 ご本人と奥様が12年間もの長い間ALSと共に歩むことができたのは、「ALSは病気ではない」という固い信念に貫かれていたからでした。

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告知されないまま耳鼻科、歯科を転々と


     T.H.さんは1991年、60歳のとき、「ラ行」の発音がおかしいと感じて当病院の神経内科を受診しました。当時神経内科教授をしておられた先生は、T.H.さんの中学の同窓生で、あえてALSという病名を告知されませんでしたが、当時は告知しないのが常識のようで、「老化」という診断が告げられました。
その後、耳の具合がおかしいと耳鼻科を受診したり、噛み合わせが悪いのかとT歯科大学病院を受診したりしましたが、やはり病名は不明のままでした。歯科医からT総合病院を紹介され、そこで詳細な検査を受けることになります。
 

若い研修医を質問攻めにして聞き出した病名


     T総合病院での検査中、T.H.さんはどうしても自分の病名を知ろうと検査を担当してくれた若い研修医を質問攻めにして、ついに「ALS」という病名を聞き出しました。T.H.さんがそれまで抱いていた疑問は、病名がわかったことですべて納得がいきました。
再び私共の病院の神経内科を受診されたときは、ALSについての詳細な知識をすでに持っておられました。当時はまだ軽い球麻痺症状のみが現れているだけで、自由に行動できたため、検査も通院も単独で行っていました。奥様はご主人の口を通じてALSという病気を知らされたといいます。
 

息子たちを集めて家族会議を開く


     T.H.さんは非常に気丈な方だったので、病名が判明した時、急遽、2人の息子さんたちを集めて家族会議を開き、T.H.さんが経営している会社の先行きについて話し合います。
かつて電器メーカーの設計技師だったT.H.さんは、昭和41年に会社を辞めて独立。法人用パソコンのメンテナンスを業務とする社員100人の企業を経営していました。長男は大手都市銀行員、次男は精密機器企業に勤めるサラリーマンで、おのおのが独自の地位を築きつつある矢先の出来事でした。
2人の息子さんと奥様はALSの予後を知り、しばし呆然としたといいます。その時T.H.さんは、専業主婦の奥様に少しずつ会社に出て経理の仕事を覚えてもらいたいと望まれました。
 

目標は「病人にならない」「寝ずに普通の生活をする」こと


     ALSであることがわかった当初は、鬱状態になる時期がありました。しかし、T.H.さんは自分の会社経営という大きな責務があったため、奥様と2人でこれを何とか乗り切ることを決意します。もともと強靭な精神力をもっていたT.H.さんだからこそ、いざというとき病に立ち向かう強さがあったともいえます。
そして、T.H.さんが奥様との間で取り決めたことは「ALSを病気にしない」「寝ずに普通の人と同じ生活をする」ことでした。こうして「絶対寝ない」ことを目標に、奥様との長い二人三脚が始まります。
 

布団での寝起き、電車通勤で筋肉の鍛錬を


     発病した当時、布団で寝起きしていたT.H.さんは、病名が明らかになってもあえてベッドを使用せず、そのまま布団を使用しました。日常生活で筋肉を動かすことの重要さを知っていたからです。会社に出勤するのも電車を利用し、駅の階段の昇り降りは格好のトレーニングになりました。
会社の人や家族もT.H.さんを病人扱いにせず、同じ物を食べ、旅行や食事にもどんどん積極的に出かけました。病は気からということわざどおり、病をものともせず日常生活を送ったT.H.さんと奥様。その矜持は息子さんたちにも100人の社員にも伝わっていたことでしょう。


 

8年めから自動車通勤を開始


     病気の遅い進行に助けられ、自力で通勤していたT.H.さんが、ちょっとしたことで転倒し額を縫う怪我を負ったのが1998年夏。同年の秋、再び転倒したT.H.さんは、とうとう電車通勤を断念し、タクシーでの通勤を開始します。1999年には車イスを作り、会社でも車イスで仕事をこなしました。
年2回の奥様との箱根旅行は年中行事で、車イスになってからも必ず出かけて食べたいものは何でも食べ、普通の人と同じように過ごしました。
 

息子さんに会社を託しほっとした矢先――


     発病して11年目の2002年秋、T.H.さんは71歳になっていましたが、さすがに体力の衰えを自覚し始めます。当時銀行の支店長をしていた息子さんに会社を手伝ってほしいと願うようになり、息子さんは惜しまれながら2003年の1月末で退職することを決意しました。それを聞いたT.H.さんはほっと安堵の表情を浮かべたといいます。
息子さんの退職まであと1週間という1月の寒い日、T.H.さんはいつものように奥様と一緒にタクシーで会社に向かいます。途中まで来たとき、T.H.さんの容態が急変し、家へ引き返そうとしました。しかし、見る見る呼吸困難の状態になり、救急車で私の病院へ。ちょうどその日は私の診療日だったので、人工呼吸と心臓マッサージで一時蘇生しました。ご家族の方たちがT.H.さんの枕元にかけつけましたが、残念ながら2日後に帰らぬ人となりました。
 

奥様から闘病中の患者さん・ご家族へのメッセージ


      本人が一生懸命がんばっている姿が周囲への励ましになって、息子たちをはじめ、中学生の孫息子や小学4年と幼稚園の孫娘、ヘルパーさんたちも一緒にがんばってくれました。一生の間には良いことばかりが続くわけではありません。病気という難題にぶつかってもぎりぎりまで努力して、病気にのまれず闘うこと。どんなことも一つ一つ勉強だと思って対処していけば、よい体験になります。ALSを病気だと思わずあきらめなかったことが、主人の12年間の会社勤務を支え、私たち家族を支えてくれました。

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